Memorial hall光延記念館
新光電気工業株式会社栗田総合センター(旧・栗田工場)内に、
光延の足跡を綴る光延記念館が設置されています。
財団創設者の光延丈喜夫は、新光電気工業株式会社の創業者の一人であり、会社設立以来約半世紀にわたって経営に携わってきました。
光延が長野の地と深い関わりを持つことになったのは、第二次世界大戦当時に遡ります。光延は、東京物理学校(現・東京理科大学)理化学部を卒業後、1939年に富士電機製造株式会社(現・富士電機株式会社)に入社。その後すぐに東京大学理学部に派遣され、真空管の開発に携わります。第二次世界大戦の戦局悪化により、真空管の製造拠点が川崎から長野市に移されることとなり、光延は富士電機研究部長野分所の工場長として着任します。しかし、まもなく終戦を迎え、軍用品を製造していた長野分所は閉鎖の危機に追い込まれました。工場を閉鎖すれば、従業員約60名とその家族が路頭に迷うことになり、また、設備とともに、充実してきた技術力は散逸してしまいます。光延は他数名とともに、独立・創業の道を選ぶことを決意し、合資会社長野家庭電器再生所を設立しました。家庭用電球のリサイクルを主な事業とし、創業まもない1946年には新光電気工業株式会社に改組し、新たなスタートを切ります。
通信機用ランプの製造など、真空技術や金属加工技術をはじめとする創業以来培ってきた技術を応用して、徐々に事業拡大をはかり、富士通株式会社の資本参加を得て、1957年に長野市栗田に工場用地(現・同社栗田総合センター)を手に入れるとともに、本格的に半導体分野へ歩み始めました。
光延は、技術を自社開発することの重要性を説く一方で、優れた生産技術や設備を積極的に導入するなど、技術開発を志向するとともに、“製販一体”となって顧客をサポートする体制を構築しました。「世界で唯一、あらゆる半導体パッケージを供給するメーカーになる」という志を掲げ、ガラス端子、リードフレームをはじめ、さまざまな半導体パッケージの事業化をはかり、その地歩を固めていきました。
オイルショックの影響を大きく受けるなど、数々の危機に遭遇しながらも、1984年には東京証券取引所市場第二部への上場を果たし、1989年に取締役を退任するまで、光延は同社の成長を導いてまいりました。
長きにわたり、新光電気工業の経営を主導してきた光延を「科学者、商売人、人情家、この三つを兼ね備えたコスモポリタン」と例える人もいました。その活動は幅広く、たとえば、産学官協調のもとに進められている「県テクノハイランド構想」における活躍が挙げられます。北信地域の「善光寺バレー圏域」の初代推進協議会長を務め、この名称も、アメリカのシリコンバレーに倣って光延が命名しました。また、産業界からの提案者として特に光延が力を注いだのは「人材の育成」でありました。光延は、経営の本質について聞かれると、決まって「経営とは人づくりです」と答えるなど、「人を育てたい」という思いと地域への「ご恩返し」への思いから、「北信奨学財団」を設立するに至りました。
新光電気工業株式会社栗田総合センター(旧・栗田工場)内に、
光延の足跡を綴る光延記念館が設置されています。